「お家は、いい。誰に気兼ねすることなく、テレビをつけたり夫婦げんかができる。」
約30年前、在宅人工呼吸療法を始めたばかりのご夫婦の言葉です。
居間であったであろう部屋の中央にベッド。そして、静かに、規則的に奏でる人工呼吸器の音。その中に、微笑みながら佇むご夫婦の姿。医療機器が生活空間に溶け込むということを肌で感じた経験でした。どんなに医療依存度が高くても、どんなに重い障害を持ったとしても、住み慣れたところや安心できる環境で暮らすということは、人をいきいきと輝かせます。
2020年4月、難病ケア看護は、新たに発足した社会健康医学研究センターのユニットとして、リ・スタートを切りました。「神経科学総合研究所社会学研究室」開設(1972)から、約半世紀、難病の創生期から活動を蓄積し、日本難病看護学会を担いながら、難病看護研究および情報の拠点となって参りました。この伝統に恥じない活動を引き続き推進します。
ご承知の通り、2020年4月現在COVID-19の世界的な蔓延により、誰もが先行きのみえない不安の中にいます。「目に見えない敵を、正しく怖れる」、それが今、一番必要なことですが、難しいことでもあります。この点において、難病との共通性を感じます。目に見えない敵の正体が少しづつ、わかりはじめてきた難病の世界において、「正しく怖れる」とは何かを追求してまいります。
難病は、誰もが発症しうる疾患です。罹患した方誰もが難病とともに生きる社会に向けて、難病の「難」がなくなるときまで、皆様方からのご指導、ご鞭撻を賜り、ともに歩んでいけることを願っています。
難病ケア看護ユニットリーダー 中山 優季
年 | 社会の動き | 難病看護・研究の動き |
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1965 | 神経疾患患者の様子 ・1965年に神経内科が診療科目として独立 ・神経内科外来・病床は5国立病院にしかなかった ・確定診断がつかない、治療法がないため診療対象外だった ・身体障害者手帳は対象外であった ・障害年金も対象外であった ・車椅子用自動車はなかった(第1号は1974年) ・療養者は外出することができなかった |
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1968 | 東京進行性筋萎縮症協会(東筋協)発会 検診活動、宿泊研修、訪問検診活動に協力 |
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1969 | 全国スモンの会 発会 ・衆議院予算委員会でスモン患者救済の提案がされる ・東京都知事と対話集会:神経病医療センター (専門病院+総合病院+福祉施設+研究所+大学) 協力:永和印刷株式会社,医学書院 |
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1971 | 都立府中病院神経内科 設置 | |
1972 | 難病対策要綱 制定 ・スモンの原因が判明し、スモン訴訟の提訴 ・厚生省特定疾患「難病の治療・看護調査研究」 開始 |
東京都神経科学総合研究所 開設 |
1973 | 在宅看護研究会 発足 木下安子リーダー | |
1970年代 | 在宅診療の開始 在宅人工呼吸器ALS者の支援 1970年代 在宅診療 1970年代 在宅人工呼吸器療養 |
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1980 | 都立神経病院 開設 | |
1985 | 日本難病看護学会 発会 川村佐和子リーダー(1986年) | |
1990 | 在宅人工呼吸療法 診療報酬化 | |
1991 | 牛込三和子リーダー | |
2000 | 小倉朗子リーダー 2000年代 国際参加支援 |
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2010 | 東京都医学総合研究所 発足(三研究所 統合) | |
2015 | 難病医療法 制定 | 第3期プロジェクト 中山優季リーダー |
2020 |
社会健康医学研究センター 難病ケア看護ユニット |
研究員 | 中山 優季(副参事研究員) 小倉 朗子(主席研究員) 原口 道子(主席研究員) 松田 千春(主任研究員) 板垣 ゆみ(非常勤研究員) 澤田 樹里(研修生) |
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研究支援者 | 川村 さをり 小林 佐知子 森下 薫 清水 香代子 清水 和代 佐野 美江 前田 千津 今関 裕子 |
客員研究員 | 清水 俊夫(都立神経病院) 木田 耕太(都立神経病院) 林 健太郎 (都立神経病院) 森島 亮(都立神経病院) 石澤 圭介(都立神経病院) 川村 佐和子 |
協力研究員 | 奥山 典子(都立神経病院) 村田 奈津代(都立神経病院) 原 智子(都立神経病院) 大窄 真弓(都立神経病院) 三村 恵美(都立神経病院) 矢吹 みゆき(都立神経病院) 村上 未来(都立神経病院) 笠原 康代(東京保健医療大学) 申 于定(東邦大学) 須坂 洋子(獨協大学) 大竹 しのぶ(練馬区医師会訪問看護ステーション) |